葬儀社の「言うがまま」…日本のお弔い「ぼったくり」の裏事情
そもそも、庶民が亡くなった場合に葬儀(式典)が必要なのか
社会にとって有用なことを成し遂げた偉人や貴族なら式典を開催するのも分かる
しかし、何も成してない庶民に式典など不相応である
式典とは、香典や祝儀などを貰う場ではない
貴族や名士が全て自前のカネで余裕を持って執り行うものである
参列者は施しを受ける庶民の側である
庶民も式典をするようになったのは、日本の景気がよかったバブルの名残であろう
今の日本には庶民が式典を行う余裕などない
故人からしても死んだ自分のために200万円も無駄に使うよりも
遺族が200万円分の有用なサービスを受けた方が気持ちよく昇天できるだろう
まずお前ら庶民が式典をするに足りる存在なのかよく自分を見つめなおした方がよい
葬儀社などは、遺族が故人を想う気持ちを悪用し
金をとれるだけ毟り取ろうという悪意しか持っていないことに気付くべきである
霊魂や神など存在しない
あるのは遺族のこれからの生活だけである
存在するわけがないものをあたかも存在するように見せかけて金をとる行為を「詐欺」と言う
「詐欺」だと言われない程度に社会習俗化したのは見事としか言いようがないが
これからの貧窮化していく日本でバブル時代のような式典を続けることに何か意味があるだろうか、自分の頭でよく考えてみるといい
ありもしない鎮魂のために子ども1人を大学に行かせる金を消滅する肉と骨の塊に浪費するなど、パチンコや競馬などのギャンブルよりも性質の悪い浪費である
それが浪費だと思っていないからこそギャンブルより危険なのだ
人が亡くなった場合、庶民の遺族は尊属への敬愛の感情を大事にすればよく
式典など開く必要がない
人の死体は法律上火葬にする必要があるから行政のサービスで火葬だけならほぼ無料である
火葬した後の骨はそのまま捨てることはできないから
粉骨サービスでも使って砕いてもらい散骨するか
もっとお金をかけたくなければ金槌等で法令の基準に適合するまで砕いて生ごみで出す方法も適法な処分である。
昨晩食べたチキンや魚の骨と死んだ人間の骨は本質的には等価なのである。
むしろ、人間の骨の方が撒くにも捨てるにも法規制があるため、処分に手間がかかる質の悪い廃棄物である。
庶民など死んで100年も経てば誰も覚えていないであろう。塵芥である。
個人は個人として尊重され個人には価値があるなど義務教育で刷り込まれた幻想であ
る。
(そもそも立憲主義憲法が制定される前は、人は国家の所有物であった。それこそが本質で、個人に価値などない。個人の価値など立憲主義で糊塗されたはりぼてなのである。)
庶民の本質は資本主義社会をまわるひとつの部品にすぎない。
部品のひとつが喜ぼうが悲しもうが壊れようが、社会にとっては何の影響もない。
なんてことのない部品のひとつの損壊で式典を開いて浪費するほど愚かなことはない。