志らく憤慨 ツイッターは「馬鹿の釣り場」「私の目標、ブロック1万人」 争いは同レベル間でしか発生しない
志らく憤慨 ツイッターは「馬鹿の釣り場」「私の目標、ブロック1万人」 (東スポWeb) - Yahoo!ニュース
この「君たちはどう生きるか」の表紙の少年がそのままおっさんになったようなお方を見ていると、ひと昔前のネット初心者の中高生を想起させる。
人はどんなに人生経験や知識を蓄えても、それはあくまでも自分が経験を積んだ領域で発揮されるにすぎない。
会社員が定年退職をした後、商売をはじめたり、投資に手を出して退職金を全部失うような例を目にする
そういう失敗例は、自分は会社では上手くやっていた、人生経験も豊富、若い者には負けるわけがない、だから成功するという間違った認識に基づくものであろう。
確かに、人が、30~40年やってきたことに関しては、一流に近いものがあって、容易に他人に負けることはないだろう。
ただ、人は新しい分野に手を出したとき、その分野では新卒から2~3年目の24,5歳の子供にもボロ負けするということだ。
「人が何かをはじめるのに遅いということはない」などとはきれいごとで、自分の人生経験や専門知識を土台・基礎として活かせる分野ならばまだしも(そもそも、この場合は全く新しいことをはじめたとは言えないだろうが)、新しいことを始めるには遅すぎるという年齢やタイミングは絶対に存在するのである。
「新しいことを始めるには遅すぎるという年齢やタイミング」が存在するからこそ、「人が何かをはじめるのに遅いということはない」というきれいごとが産まれるのだ
「きれいごと」とは見方を変えれば大変役に立つもので、きれいごとと反対の状態は世の中の常だったり、よくあることだったりする。
30年も生きればわかると思うが、人は年々選択肢が狭まり、30代にもなれば、それまでに身に着けたスキルで生きるしかない。新しいことをはじめても20代半ばの3年目にも負けるからだ。
定年を過ぎて商売や投資などもってのほかである。天賦の才でもない限り、20代のころから商売や投資で研鑽を積んだ専門家に搾り取られて終わりなのが目に見えている。
人生経験をいくら積んでも、ネットで罵り合う様を見ていると、ネットにはじめて触れた中高生とほぼ同レベルに見える。
人生50年生きても、はじめて触れるものではガキと何ら変わらないものだ。
自分は長く生きている、経験がある、自分の分野では勝っている、とはいえほかの分野では勝てるとは限らない。
それが、サラリーマンが定年して格闘技に挑戦とかいうなら、誰も通用するとは思わないだろうが、あまり外観に現れることのない知的作業であると自分でも通用するのではないかと思い込んでしまう人は後を絶たないように思われる。
だからこそ、定年退職者向けの詐欺的な商法も後を絶たないのだろう。
「ツイッターは馬鹿の釣り場とはよく言ったもので、ここのところ大漁だ。」
なるほど、含蓄あるお言葉……